要望の声

私とESTAは切り離すことができない関係というか・・・結婚と同時に芝居からも遠ざかり、また、芝居へと戻ってきた。その第二の芝居の場所がESTAであった!再始動した私にとってここは、表現することの幅を広げてくれた場所である!北九州の表現者達が、SAMさんの大きな理解と重なり合って、いろんなものが生まれて行ったことは間違いないと思う!このような場所を北九州から排除すべきではないと、確信している!
                        演劇作業室紅生姜 代表 橋本 まゆみ

私ども舞台集団コンビニという表現集団は、旗揚げから6年目を迎える劇団です。その6年前の旗揚げ公演から、現在に至るまでの全公演を『スミックスホールESTA』で行ってまいりました。
現在まで、『スミックスホールESTA』を利用させていただいてきたのは、まず、その利便性やキャパシティー・設備等、ハード面での利用価値の高さが挙げられます。来ていただいたお客様に対し、自分達が出来る最大の力を発揮できる空間であり、かつ、お客様との距離感を大切に出来る。このような空間は、他に類を見ないものだと考えております。また、創る側としても、適度な自由さ・想像力をかきたてる【箱】としての存在感・スタッフの懐の広さ等、私達表現者が試される空間・場所として大きな存在感があります。
次に、『スミックスホールESTA』の存在そのものが強大である、というソフト面での存在感があることです。現在、北九州を発信拠点として数多くの劇団・役者・音楽家が輩出されております。その方々の多くが、この『スミックスホールESTA』での舞台を一度は踏んだ方々ばかりです。現在では、その知名度・地位が全国に名を轟かせていらっしゃる方々も、この『スミックスホールESTA』で様々な悩み、苦しみ、喜びを経験し、全国へと羽ばたいていらっしゃる方々です。若手表現者達は、そのような偉大な先輩方に続けとばかりに、日々、精進する毎日です。すなわち、このホールは若手表現者の【登竜門】的存在であるのです。価格帯が利用しやすいというばかりではありません。いつか自分も大きくなりたい、そんな希望を胸に宿した若手表現者はまだまだあふれております。そんな、若手表現者にとって、憧れの存在でもある『スミックスホールESTA』がなくなってしまう。これは、少なからずこの土地における、文化振興の発展を妨げるものであり、表現者の育成を妨げることにつながるのではないかと考えます。もちろん、若手ばかりではありません。この『スミックスホールESTA』は、現在、北九州に根を生やした様々な劇団・表現者達の活動拠点となっております。それは、このホールには、ここでしか出来ない形が生まれるからなのです。私達は、このホールでの公演を繰り返してきました。その度に、「今度は、こうしよう。これはどうだろう?こういうこともできる!」と試行錯誤しながらも、仲間と何かを創り上げる、お客様に自分達の表現を知ってもらうため毎日を過ごして参りました。10月にひかえました私どもの公演も、このホールだからこそ考えうる最大最良のものをお届けするものとなっております。私ども以外の表現者達も同様だと思います。毎日、この『スミックスホールESTA』に対する挑戦を挑んでいるのではないかと思います。
舞台然り音楽然り、ここから新しい表現が生まれ成長し、羽ばたき、根を生やす。そして、それに続けと、また新しい芽が発芽する。16年という短い期間に、これほど愛されるホールに成長した『スミックスホールESTA』は、現在老朽化という憂き目に遭遇しています。しかし、私どもは、愛すべき老木だからこそ存在し続けてほしいと願ってやみません。
どうか、『スミックスホールESTA』の存続に向けてのより良いご検討を再度お願いいたします。

                        舞台集団コンビニ 代表 後藤千代美

広島を拠点に演劇等の活動を行っている大槻オサムと申します。
このたび、住友金属様より、スミックスホールESTAの閉鎖が通知されたことを伺いました。私はESTAの所在する北九州市の住民ではありませんが、縁あって何度か利用させていただいたことがあります。その際は、通常のホールではあまりさせていただけないような使い方も快く受け入れてくださり、また、スタッフの方々も誠実で熱意のある方ばかりで、大変充実した公演をさせていただくことができました。表現者の側からすると、自由な創造力を受け入れ、育んでくれる、貴重なホールと言ってよいと思います。
北九州市は芸術活動を積極的に援助している市であるとうかがっておりますが、このようなホールが北九州市から失われることは間違いなく北九州市民の文化・芸術活動において少なからぬ損失であると憂慮いたします。北九州市におかれましては、スミックスホールESTA存続の為に、ご協力下さることを希望します。
また、住友金属様におかれましては、かつて「柔らか頭してますか、住友金属」というフレーズのCMが流れていたように記憶しております。
鉄というのは熱いうちは柔らかく、様々な形状に加工することができるものですが、冷めると堅くなって後は錆びるのを待つばかりです。スミックスホールESTAは、設備自体は若干老朽化してきている事実を否定できないかもしれませんが、北九州市の文化・芸術活動の拠点としましては、未だに熱い情熱と存在価値を失ってはいません。すでに冷たく錆びた場所ではなく、今も尚、新しい価値を生み出して行く可能性がある、熱くて柔らかい場所なのです。その存在意義を正しく認めていただき、「柔らか頭」で存続にご理解をいただけるよう希望します。

                        2008.9.4 大槻オサム(広島・単独旅行舎)

ESTA存続を希望します!!

おいら20年以上イベントを作ってきたんだけど
自分が感動したり感動できそうな表現を紹介する作業は
喜び以上に難儀な事が、わんさかてんこもりで
「もうやめた!」って投げ出したくなるようなことばかりなんだな実は。
そんな挫けそうな背中をちょっと押してくれる小屋(会場)なんて
たぶん日本中探しても、そんなに多くは無いはずだ。
わりと、(かなり?)自由で、融通がきいて
こっちの意図も、ぴぴっと理解してくれて
そして何よりも、そこで表現が産まれる事を一緒に喜んでくれる場所。
こんなのもう一度作ろうと思っても無理無理!
だから、無くしちゃダメ!ってことでよろしく。

                        田口清隆

        『わたしのしあわせ』   


 スミックスESTAさま、私はあなたから『しあわせ』をいただきました。
『わたしのしあわせ』という題で、作文を書かせていただきます。
あなたが北九州小倉の地で、ずっとずっと呼吸を続けてくださることを祈りつつ・・・。

 わたしはあなたから三つのしあわせをさずかりました。
壱、弐、参として、記します。 


 壱「こまっちゃりずむでアロハオエを踊れたこと」。

東京から梅津さん、おおたか静流さん等みえたときのことでした。
ハワイアンの曲調に、わたしはおもわず踊りたくなりました。
誰に言われたわけでもないのに、ステージ下で客席にむかって踊りました。
芋焼酎も手伝ってくれて、とっても気持ちよく踊れました。
ステージ下から見た客席は、ハワイに見えました。
太陽、風、そして波を感じました。
それをアロハオエにあらわしました。
爪の先まで神経を届かせて、気持ち良いこの波を地球の隅々にまで届けたい。
そんなおおらかな気持ちになれました。
ESTAさん、ありがとう。

 弐「シンミョン公演まえに、仲良しさんと仕度ができたこと」。

韓国の劇団を呼んで、野外劇をしたときのことでした。
仲良しのMちゃんと夜間作業をしました。
野外劇会場となるESTAの駐車場の長さを測る作業をしました。
ふたりでメジャーを持って、植え込みやちょっとした高低差なんかを調べました。
〜営業中〜の板がかかった居酒屋みたいな気分になれました。
野外劇を通じて、韓国の役者さん、楽士さん、そして東京のテント芝居の大家の方々とも交流できました。
国際交流、国内交流、どちらもありです。
グローバルなESTAさん、ありがとう、ありがとう。


 参「新しい天使で厨房係ができたこと」。

お芝居の手伝いをしました。
厨房係でした。
厨房隊長は、今はママの広島のMさん。
食べるヒトは30名くらいだったでしょうか?
何食か作りました。
ESTAさんの厨房で。
食器もお借りして。
皆さん、役者さんでも舞台作りで金槌でトントン叩いたり、スプレー使ってベニヤ板に色を吹きかけたり。
体力が要るだけに、沢山料理を作っても、すぐに平らげてくださいました。
いつもはヒトリの食事を整えるわたしには、昔実家で大勢が盆正月に集まるような、そんなにぎわいを思い出させてくださいました。
そして、みんなでたべることを少々恥ずかしく感じていたわたしを自覚させてくださいました。
そんないろんな思いを体験させてくださったESTAさん、ありがとう、ありがとう、ありがとう。


 こんな風に三つの話を書くのは、ESTAさんを「小屋」として愛してやまないからなのです。

こんな良い小屋、潰しちゃイカン!!です。
三つの出来事が、どれだけわたしの心に焼きつき、そして生きる糧となってくれたことでしょう。

 これもそれも、全部ESTAさんがあるおかげなのです。

そして、今からもずっとずっとESTAさんには、わたしの心の糧であっていただきたいのです。

 お願いします。

ESTAさんを続けてください。

 心からお願いします。

ESTAさんを潰さないでください。

 よろしくお願いいたします。

                        2008年9月12日 福田記子


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