アジール(ASYL)
という言葉がある。
「 統治権力の及ばない場所 」「 避難所 」
そして「 聖域 」という意味合いをもって、ある「エリア」を指す。
自由であり、何か人智の及ばない・・・でも大切にすべきということだけは解る・・・
そして根元的な意味で「 わたしが守られる 」場所。
自由、というのは、「誰からも干渉されない」ということではない。
それは「選択出来る」ということではないか。
どんなに持たざる者でも「そこに居ることを選択出来る」
そんな場所、が、アジールであるとしよう。
さて、特定の施設名のつくところではなく、しかし「誰もが」アジールと認識するところ・・・は、
都市から「消えた」らしい。
同時に、アジールを守り存続させるために生まれ続けた「モラル」も消えた。
自分が守られるには、他人も守られなければならない。
自他の存在に「是」を言うモラルは、消えた。
・・・かのように見えた。
ここに、野外劇をしながら全国を回ろうと決めた一家が在る。
「楽市楽座(らくいちらくざ)」という。
なんというファンタジックな・・・?!
否、生活の芯を野の芸能に定めた彼らの存在は、fantasyではない。
それは、まだ人間がどれだけのpowerを持っているかを示す具体的な希望だ。
彼らは、
生活の猥雑さから神事に近づくまでの広がりを持ちうる「劇」というライブ表現で、
木々や風、水、虫、動物との交信を行い、「 いのち 」を際だたせる。
その「芸能」は、土地と云う意味での「場」が、物理的な結界に拠らず
「アジール」として立ち上がる「時間」を支えるもの。
開かれた芸能の行われるマダン(広場)は、すなわちアジールとなる。
ともかく
彼らが歌い、舞い、語り、そしてまた歌うところへ
誰もが居てよいのだ。
そこで起こることを、見知らぬ誰かと分かち合えるのだ。
そこで笑い、泣くことは、「楽しいね」「切ないね」ということに
あなたの存在に
ひたすら「是」を発することなのだ。
ああ、
そんな豊かな時間が
私の街にもやってくる・・・!
春の宵、小倉城東お堀そばにて。
きっと、会いましょう。
谷瀬未紀(ピカラック)